リリウオカラニは時代に翻弄されましたが、姪のカイウラニは時代に果敢に挑んだ王女でした
カイウラニの生い立ち
1875年、ハワイ王国第7代国王カラカウアの妹リケリケ王女と、スコットランド人の父の間にホノルルで生まれ、生後すぐにカラカウア家の養女となる
早くから王家の次世代後継者 (第8代リリウオカラニの次) と目されて、国民的人気も高かった

1881年、カラカウア王は5歳のカイウラニ王女を連れて世界一周の旅へ
最初の訪問国は日本、来日の際に赤坂離宮で明治天皇と会談
姪のカイウラニ王女と、13歳の山階宮定麿王との縁談を申し入れた

明治天皇は「国力増強に努めている明治新政府にはそこまでの余力はない」として縁組は実現しなかった
後日談として、カイウラニ王女は政略結婚ではなく、愛のある結婚を希望するということをリリウオカラニにあてて綴っている

次期王女に指名
14歳の時、カラカウア王の指示でイギリスに留学
1891年、留学中に父カラカウアは死去
叔母であるリリウオカラニが王位継承権第1位に指名されハワイ王国第8代女王が誕生
カイウラニ16歳の時に、次期女王後継者に選ばれた

ハワイ王国崩壊
1893年、渡英3年が過ぎカイウラニ王女が17歳になったころ、母国ハワイでは欧米系住民によるクーデターが起こりハワイ王国が滅亡
リリウオカラニ女王は裁判により、捕らわれの身になったことを、英国留学中だったカイウラニは遠いイギリスの地で聞いた

アメリカに直談判
1895年、カイウラニ王女は父と共にアメリカ東海岸に渡り、クリーブランド米大統領との面談に成功し、クーデターの不当性、無効を訴える
ハワイは野蛮な国との印象を持っていたアメリカの人々は、カイウラニ王女のたぐいまれなる美貌とヨーロッパで身に付けた洗練された姿に、ハワイのイメージを一新
各新聞社はカイウラニ王女の訴えに応援し、おのずとアメリカの国民の世論も欧米系住民よりハワイ王朝に味方し、大統領も徹底調査すると約束する
その後、ニューヨーク、ボストン、ワシントンDCなどで、ハワイ王国復興を訴えた続けた
彼女がニューヨークで行なったスピーチは、イギリス仕込みの気品と教養に溢れその美貌とともにアメリカ人の心に痛烈に刺さった
カイウラニ王女17歳の時だった
カイウラニはアメリカで絶大な人気を得ながらも、ハワイに帰国しなかった
ハワイの人々の支持を受けている叔母とハワイのために…

1897年、カイウラニは8年ぶりに祖国ハワイに戻る
1899年3月6日に友人の結婚式に出かけた際に風邪をこじらせ23歳の若さでこの世を去る
米国はハワイをハワイ準州として併合した翌年にことでした
今でもワイキキの一等地にプリンセス・カイウラニ・ホテルがあり、近くにはペットのクジャクと一緒の銅像もあります

資料・写真はハワイ観光局アロハプログラムより
明日は4歳年上の同じくカラカウア家の養子 (異父母兄) クヒオの生涯についてお話ししましょう
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