リリウオカラニ物語(上)

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上の写真はハワイ州庁舎隣りに建つリリウオカラニ女王の銅像

南海の小さな島国であったハワイは、1800年代前半は捕鯨の基地として、また1800年代後半にはサトウキビ産業などで世界の注目を集めるようになります
やがて、東南アジアの国々がそうであったように、欧米の強国によって植民地化していく時代になりました
太平洋の軍事的要所としてハワイは絶好の位置にあり、アメリカが目を付けないはずはありません
個人や各国の利権に翻弄された時代に終止符を打つべく、戦ったのがリリウオカラニだったのです

若い頃はこんな人

リリウオカラニはハワイ王国第8代国王
兄は第7代国王カラカウアで世界一周の途中、日本にも立ち寄り明治天皇に拝謁した、ハワイ王国の近代化に大いに寄与した国王でした

若き日のリリウオカラニ

リディア・リリウオカラニ・パキは1838年9月ホノルルで生まれる
4歳になると「首長子弟学校」と名付けられたロイヤル・スクールに入学し、他のホノルルの王族とともに英語や音楽などを学び、好奇心旺盛でお転婆な性格であった
幼い頃から音楽の才能に長け、女学生の頃には当時のハワイ国歌を「He Mele Lāhui Hawaiʻi」作曲
40歳の時にはあの名曲アロハ オエ (Aloha ʻOe) を作詞作曲しました

アロハ オエと国歌
写真の女性は誰? 皆さんはハワイアンの名曲「アロハ オエ」(Aloha ʻOe) はご存じですか?今日はこの曲の作詞作曲をした人のお話をしましょう…と言っても、冒頭から写真が出ていれば想像できてしまいそうですねその通り、この方が...

ハワイ王国の国王へ

1862年、米国出身の白人で後にオアフ島知事となるジョン O ドミニスと結婚

この時代のハワイ国王家は短命の者が多く、カメハメハ1世から続いたカメハメハ家も5世が死去して直系が断絶、後を継いだルナリロも翌年死去すると、血縁者の中からリリウオカラニの兄カラカウアが選ばれて1873年に国王に即位

ハワイ王国第7代国王 カラカウア王

カラカウア王はハワイ経済のためアメリカ合衆国との交渉を積極的に行い、1875年には自らワシントンに出向きグラント大統領と会っている
そして、ハワイの産品である砂糖や米の輸入自由化を認めさせるところまでこぎつけた

1887年7月有力な白人サトウキビ農場主たちは、カラカウア王の浪費スキャンダルに乗じて武力蜂起し、国王からほとんどの権力を奪う新憲法への署名を迫った
銃剣憲法とも呼ばれるこの憲法では、外国人の投票権が認められ、アジア人労働者や低収入者の投票権は制限された
これによりハワイ連盟と名乗る白人農場主たちは、少数派でありながら実質的に島を支配することになった

1891年カラカウア王はアルコール依存症になりサンフランシスコにて客死
リリウオカラニは女王として即位、共和制派 (ハワイ連盟) との対決姿勢を強めた

波乱に満ちた在位2年間

新国王になったものの、国内の状況は悪化する一方
王権とハワイアンの人々の権利を取り戻すべく、兄が署名した憲法をカメハメハ5世が制定した1864年憲法の趣旨に戻そうとするも…

リリウオカラニ、女王として即位

1893年、リリウオカラニ女王は兄が署名した銃剣憲法に替えて、在留外国人の投票権を取り消して国王の権力を強化する憲法を制定しようとした
それに対し、共和制派の武装勢力はリリウオカラニの宮殿近くに集まり、女王の退位を要求した

リリウオカラニの運命は…
ハワイ王国の行く末は…
明日の「リリウオカラニ物語(下)」に続きます

資料・写真はハワイ観光局アロハプログラムより

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