リリウオカラニ物語(下)

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上の写真はハワイ州庁舎隣りに建つリリウオカラニ女王の銅像

南海の小さな島国であったハワイは、1800年代前半は捕鯨の基地として、また1800年代後半にはサトウキビ産業などで世界の注目を集めるようになります
やがて、東南アジアの国々がそうであったように、欧米の強国によって植民地化していく時代になりました
太平洋の軍事的要所としてハワイは絶好の位置にあり、アメリカが目を付けないはずはありません
個人や各国の利権に翻弄された時代に終止符を打つべく、戦ったのがリリウオカラニだったので

ハワイ王国の終焉

米国人の命と財産を守る名目で米海兵隊がオアフ島に上陸すると、リリウオカラニ守備隊に降伏を命じた
この機に乗じてクーデター派は王制の廃止を宣言し、戒厳令を敷いてイオラニ宮殿に米国の旗を掲げた

アメリカ国旗を掲げた イオラニ宮殿
はイオラニ宮殿
②はアラモアナセンター
③はワイキキ
④はダイヤモンドヘッド

これは実質的に無血のクーデターで、サンフォード・ドール (パイナップル王ジェームズ・ドールの従弟) が率いる臨時政府によって米国併合の動きは加速すると見られた
ちなみにサンフォードドールは後にハワイ共和国の最初で最後の大統領となる
1893年2月には、ハリソン米国大統領も併合条約に署名した

ハワイ共和国サンフォード・ドール大統領

クーデターの事後処理

しかし、それから1ヶ月も経たずにクリーブランドが米国の大統領に就任すると条約を撤回し、クーデターの調査を行った
調査報告書には「人民の感情は間違いなく女王を支持し、臨時政府と併合に反対している」と記されていた
クリーブランドはクーデターを「重大な恥辱」と呼び、担当者を罷免して新たな公使に女王の復位を命じた
米国の後ろ盾を得たと考えたリリウオカラニは、クーデターの首謀者はハワイ王国の法に照らして処罰されるべきだと主張した

即位前のリリウオカラニ

ところが、ドールは屈することなく臨時政府は合法的であり、武力によってのみ排除できると反発
米国もそれ以上の干渉を行わなかったため、リリウオカラニは王位を維持しつつも、ドールを止めることはできなかった

ハワイ共和国誕生

1894年7月にはドールを大統領とするハワイ共和国が誕生する
半年後の1895年1月王制派のハワイ人ロバート・ウィルコックスが反乱を起こした
少なくとも1000人のハワイ先住民が集まるとの想定に反し、実際に集まったのは100人程度で、3回ほど短い戦闘が行われただけで警察に降伏
その結果、反乱に加わった191人に加え自邸から武器が見つかったとしてリリウオカラニも逮捕された

リリウオカラニ女王

リリウオカラニは、ホノルルのイオラニ宮殿で1枚の書面を前にためらっていた
署名すれば6名の忠実な臣下は解放され彼らが反逆罪で処刑されることはなくなる
だが、署名しなければ女王としての立場を失うことになる
のちにリリウオカラニは、自叙伝にこう記している「自分だけのためならば、署名するよりも死を選んだことでしょう、しかし自分の立場を考えると…私のペンによって食い止めなければ、多くの血が流れてしまうところだったのです」

米国の準州へ

1895年1月、彼女の署名によって、ハワイ王国の歴史に終止符が打たれた
1900年6月ハワイは米国の準州となる
王位を失った女王はどうなったのだろうか
リリウオカラニはその後何年にも亘り、一族の土地を取り戻して米国政府から補償を受けるための闘いを続けた
退位から20年近くが経った1911年にはハワイ準州から終身年金が与えられることになった

晩年のリリウオカラニ
(Phot VIA LIBRARY OF CONGRESS)

リリウオカラニはハワイ王国を白人勢力から守るため尽力したがその思いは叶わず、イオラニ宮殿2階の寝室に8ヶ月幽閉された
裁判にかけられ王位を失った彼女は、1917年に亡くなるまで夫のジョン・ドミニスの実家であるワシントンプレイスで暮らした

ワシントンプレイスの庭で椅子に掛けるリリウオカラ

50番目の州へ

1959年3月米連邦議会はハワイ州昇格を承認した
1993年米国議会はハワイ先住民が主権を「直接的に放棄したことはない」旨を認める共同決議を採択した

現在では、ハワイの島民のうち先住民の子孫は10%ほどしかいない
そして今も、ネイティブ・ハワイアンはアメリカを好意的に思っていない方が多いとか…

このようにリリウオカラニは時代に翻弄されましたが、姪のカイウラニは時代に果敢に挑んだ王女でした
長くなりますので、このお話しは明日

資料・写真はハワイ観光局アロハプログラムより

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