今日は「ハワイ移民出発の日」

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明治18年1月27日

今から遡ること137年前の今日、日布移民条約によるハワイへの移民第1号の船が横浜港を出航しました

ハワイにおける移民は、急増するサトウキビ畑や製糖工場で働く労働者を確保するため1830年頃より始められました
ポルトガル人、ノルウェー人などがハワイに導入されましたが、地理的に近くてコストも安かったためアジアからの移民が好まれ、日本人、中国人、フィリピン人 (米国に併合されてから) が急増しました

1885年に日布移民条約が結ばれたことで、ハワイへの移民が公式に許可されるようになり、この政府間の条約によってハワイに働きに行った日本人移民は「官約移民」と呼ばれました

官約移民

1884年、最初の移民600人の公募に対し28,000人の応募があり、946名が「シティー オブ トウキョウ号」に乗り込みハワイへと渡りました
1894年 (明治27年) に民間に委託されるまで約29,000人が官約移民としてハワイへと (言葉は悪いですが) 出稼ぎとして向かいました

官約移民は「3年間で400万円稼げる」といったことを謳い文句に盛大に募集が行われましたが、その実態は人身売買に類似し半ば奴隷に近かったようです
労働は過酷で現場監督の鞭で殴るなどの酷使や虐待が行われ1日10時間の労働で休みは週1日、給与は月額10ドルから諸経費を差し引かれた金額であったと言われています
一方ハワイでは、日本や中国からの移民から儒教、道教、仏教、神道などが持ち込まれ、特に仏教が栄えました

これらの宗教は年中行事や冠婚葬祭だけでなく日本語学校、寺子屋、合唱隊、ボーイスカウト、講演会、バザーなど様々な催しの場を提供し、日系社会のコミュニケーションの基礎固めという役割を果たすようになりました

日本からの移民の歴史

記録に残っている例では、1806年に安芸の稲若丸が捕鯨船に救助されてハワイに上陸しています
1838年には「番談」と云う名で漂流記が残されている富山の運搬船、長者丸の次郎吉
そして1841年 (天保12年) に仲間と共に鳥島で米国の捕鯨船「ジョン ハウランド号」に救助され、ホノルルに到着した万次郎と続きますが、これらはいずれも漂流者ゆえ自分の意思で来島した人達ではありませんでした

ジョン万次郎

1860年にサンフランシスコからの帰路、咸臨丸が石炭と水の補給のためにホノルルに寄港し、カメハメハ4世が日本からの移民を要請しました (この時の通訳はジョン万次郎でした)
1868年、後に「元年者」と呼ばれるようになる1501名ほどの移民が横浜から「サイオト号」でホノルルに到着しますが、幕末の混乱の中で集められた人々は、職人と幕末に禄を失った武士が中心だったため農園での労働には向かず40名が帰国しています
1873年カラカウア王はアメリカと互恵条約締結
この結果、ハワイの砂糖産業は爆発的に拡大していき、砂糖プランテーションの規模拡大は、後に米国からの更なる資金流入をもたらし、砂糖工場の増設ばかりでなく、灌漑水路造成や鉄道建設も活発化していきます

カラカウア王

カラカウア王は世界一周の旅の最初の訪問国として日本に立ち寄り、明治天皇に謁見しました
日本からの移民を提案し、官約移民と呼ばれる明治政府が正式に認めたハワイへの移民が1885年 (明治18年) に開始されました
同年2月には汽船「シティー オブ トウキョウ号」で945名ほどが到着し、1893年にハワイ王国が終わりを告げるまでに、政府間で約2万9千人余りの日本人移民が移住しました
それが初めにお話ししました今日は「ハワイ移民出発の日」となる訳です
(写真はハワイ州観光局からお借りしました)

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