偉大なる王カメハメハ

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カメハメハ以前のハワイ

ハワイの主だった島々には、島内の権力争いを戦い抜いて島全体を手中に治めた勇者であるとともに、階層社会にありながら平民にも親しまれた謙虚な賢者としてのがそれぞれいました

クーカイリモクの羽毛の像
全体は鳥の羽で覆われ、歯は犬の歯、目の白い部分は貝の内側、黒目はククイの実が使われている(ビショップ博物館所蔵)

カメハメハ生誕

カメハメハの生誕は正確には分かっていませんが、ハワイ島のカパアウ (下の地図) で1758年に生まれたと言われています

これが正しいとすれば日本では第九代将軍徳川家重の時代、宝暦年間にあたります
ハワイ島のアリイ (首長) であった父親は、カメハメハがハワイ諸島を支配する偉大な王になると予言しました
この時大きな彗星が現れており、それは「ハレー彗星」だと言われています
青年になったカメハメハは、叔父でハワイ島の王だったカラニオプウのもとで暮らす事になりました
やがて、カラニオプウの死後その長男のキワラオが王になりましたが、新しい土地の分配法に人々は不満を持つようになり、カメハメハが中心となりキワラオに戦いを挑み見事勝利しました

そして、ハワイ島一の実力者 (王) となり、島内を掌握することになりました

カメハメハ軍進撃

当時、カメハメハが最も恐れていたのは、マウイ島、モロカイ島、オアフ島、ラナイ島を支配していたカヘキリ王でした
カヘキリもハワイ諸島全てを自分の支配下に治めようとしていました
やがてカメハメハとカヘキリは幾度となく戦争をするようになったそうです
1795年カメハメハ軍はオアフ島に攻め入り、敵軍を (現在も強風で有名な観光地になっている) ヌウアヌ・パリへ追い詰めました

オアフ軍の多くの兵士は絶壁から落ちて命を失いました
今でもこの山中のトンネルには、オアフ軍の亡霊が出るとのうわさが絶えません

クック船長との出会い

お話が前後しますが、なぜカメハメハ軍がこんなにも強かったのか?
それは若き日 (ハワイ島の王だったカラニオプウのもとにいた頃)水と食料補給にハワイを訪れた英国海軍のクック船長に会いました
初めて見る大型帆船と西欧人に強烈な印象を持ったことでしょう


のちにハワイ島全体を手中に収めていたカメハメハは、英国海軍船長との親交を深め領土の統治の方法や西欧の事情、銃などの武器についても学んだようです
特に、火器の使用法や管理法に習熟した白人の顧問を迎え入れ、600挺の銃14門の大砲40門の旋回砲6門の小型臼砲を保有するに至ったと言われています
西欧人の来島とその助力が無かったら、カメハメハ大王による八島統一と王国の成立は成し遂げられなかったかもしれませんでした

大王像について

現在、カメハメハ大王像は4体あります
①. オアフ島ホノルル
②. ハワイ島ヒロ
③. ハワイ島カパアウ
④. ワシントンD.C.

銅像建立はイギリスのクック船長のハワイ発見 (1778年) の100周年記念事業として企画され、除幕したのはハワイ王国7代目の君主カラカウア王でした
大王像はイタリアで制作され、パリで鋳造、ドイツから船で出荷されましたが船が沈没してしまい、急遽つくられたのが①で、そのあと②が引き上げられました
また、この像のモデルは本人ではなく、カラカウア王の副官やマウイ島長も務めた王族の一人、ロバート・ホアピリ・ベイカーがモデルを務めたとのことです
実際のカメハメハは《がっかりしないでください》こんな容姿 (2m近い身長) でした
カメハメハ大王生存中はまだ写真がなかったため、残されているのは肖像画のみです

《参考資料:ハワイ州観光局アロハプログラム》

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