リリウオカラニが時代に翻弄、カイウラニは時代に挑んだ、クヒオは時代を治めた…となるでしょう
ここに銅像が
ワイキキのカラカウア通りに彼の銅像はひっそりと建っています
また3月26日は「庶民の王子」として人々から尊敬され親しまれたクヒオ王子の生誕記念日、プリンス・クヒオ・デーとしてハワイ州の祝日となっています
イマイチ知名度は薄いが、でも実はすごい人なのです


②はワイキキ交番
③はホノルル動物園
フルネームは「プリンス・ジョナ・クヒオ・カラニアナオレ・ピイコイ」
凄いことにこの名前には、オアフ島の通りの名前が3つも入っています
Kuhio Ave. Kalaniana’ole Hwy Piikoi St
クヒオの生い立ち
1871年、ハワイ王国カウアイ島にて王族として生まれる
幼くして父母を亡くして孤児になるが、ハワイ王国7代目カラカウア王の妃であるカピオラニ女王が伯母にあたるため、カラカウア王夫妻の養子として引き取られて、ハワイ王国の王子となりイオラニ宮殿で暮らす
王族用のオアフ・カレッジ (現在のプナホウ・スクール) で学んだ後、カリフォルニア州のセント・マシュー聖公会学校とイギリスの王立農業大学で4年間学んだ
サッカーなどのスポーツに秀でていたといわれる

クヒオ王子は日本とも深いかかわりがあります
なんと学習院に留学していたこともあり日本人女性との結婚を周囲は期待したようですがそれは叶わなかった
ハワイ王国崩壊
カラカウア王が実権を握ると、クヒオ王子は王国政府のまとめ役に就く
1891年にカラカウアが亡くなると叔母のリリウオカラニ女王が即位して、引き続きクヒオを重要視した

アメリカがハワイ王朝を倒しハワイ共和国として配下に置くと、1895年にそれに対する反乱が起きた
クヒオはそれに参加したが、反乱は失敗に終わりクヒオは捕らえられ、一旦は死刑を宣告されたが、懲役刑に減刑されて服役した
1898年、米国はハワイをハワイ準州として併合した
王子から政治家へ
服役が終わると、クヒオは徐々に政治家への道を選んだ
しばらくハワイ独自の党派に所属した後1902年には共和党に入党選挙で選ばれて1903年から1922年に亡くなるまでアメリカ合衆国議会のハワイ代表を務めた

この間、クヒオはハワイ人の血を50%以上引く者たちに20万エーカー (約809km²) の土地を与えるという「ハワイアンホームズ委員会法」を立案したり、またハワイを米国の州に昇格する案を作りました
その後、ハワイはアメリカ合衆国の50番目の州として承認されました
《それが62年前の明日、1959年8月21日でした、そして州の祝日です》
1922年1月7日、オアフ島ワイキキにて50歳で亡くなる
オアフ島西部のカポレイに2016年出来たショッピング・モール「カ・マカナ・アリイ」の名称は、政府が管理していた広大な土地をハワイ先住民に返還した、クヒオ王子を讃えて名付けられ、センター内にもクヒオ王子の写真の展示があります
今週は激動の「ハワイ王国の滅亡とその後」をお話ししてきました
次回の渡ハの際は、楽園ハワイの見方がちょっと変わるのでは…
資料・写真はハワイ観光局アロハプログラムより
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